昭和四十六年十二月二十二日 朝の御理解
X立教神伝 「この幣切り境に肥灰さしとめるから、その分に承知してくれ。外家業はいたし、農業へ出、人が願い出、呼びに来、もどり。願いがすみ、また農へ出、またも呼びに来。農業する間もなし、来た人も待ち、両方のさしつかえに相成り。なんと家業をやめてくれんか。其方四十二歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏願い、おかげで全快いたし。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし、もの言われ相談もなり。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ。此方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子も立ち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き」
天地金乃神の教祖金光大神に、神頼みをなさっておられる。天地金乃神様が助かろうとなさっておられる。
そこから金光教の信心が生まれたわけであります。いつになったらこういう、天地金乃神様の願いが成就する事であろうかと。とてもまあ、まず、なかろうと思われる位、世界中の神様が氏子と呼んで下さる、氏子立ちの御取次を頂いて、助かって行くという事。だからというて、それを放っておくわけにはいくまい。やはりそれは、遅々とした歩みであっても、その神様の願いに応えて、取次の道の働きが、繰り返されていく事であろう。又、お取次を頂いて、真実天地金乃神様が助かられる働きを、私共が現していく事になるのでしょうが、せめて御神縁を頂いた者、せめて金光大神のお取次を頂いて、天地金乃神様のお心の中がわからせて頂いた者だけでも、本気で助かろうという気にならなければならぬ。本気で助かるという事。
昨日はあのような御理解を頂きましたが、私がこうして思いますのに、毎朝こうして、御祈念を頂かして頂くその御理解が、その日一日の一つの支えになる。その教えの中からそれぞれにヒントを頂いて、それが一日の自分の掛け守りになる。その事を思うておきその事を念じておれば、助かる事が出来る、おかげが頂けれる。私は合楽ではそう思うですね。
朝の御祈念の後に頂くこの御理解をですね、今日はこれでいかなけりゃいけないなと、今日はこれで助からせて頂かねばいけないなと、そういう例えば、閃きというかね、そういうものを朝の御祈念の中から、頂いて行かなねばならん。例えば、今朝の御理解を頂くに当たりましても、繰り返し、繰り返し、天地書附は、聞かせても頂いておりますし、その御精神の程もいろいろとわからせて頂いとるのでございますけど天地金乃神様の御心の程がわからせて貰うて、氏子の助かることその事をです、金光大神にこのようにして、切々として、願いをかけられ頼むという神頼みをなさっておられる。それを金光大神の御取次と頂いて、日々信心の稽古をさして頂くものはです本当に天地金乃神様の助かられる程しの助かり、それは私だけでも助からなければならない。いわゆる本気で助かるという事。
これはまあ、いつも私実感するのですけれども、確かにその日の御理解の中心になるところというか、中心になるというか。
昨日はそういう人達が朝から晩まです続きましたですね。お取次願われる方が、例えて申しますとね、金は僅かですけど、二十万あまりの金を出資してくれないかと、そうすると、こういう、いうならば、涎が出るような金儲けの話のなのである。
だから昨日はね、今日は止めときなさいと、ね。昨日の御理解からいうて、いつもこちらもお願いしとる事だから、向こうから願われて印を捺してくれとこういうわけである。けども、今日は印を捺してはいけませんよと。
もうそれがね、話を聞けば聞く程、昨日私がお夢の中に現れておるような行き方、そして私が夢の中に表れた土色をした、赤土をまぜたような色の水で、私が目を洗っておるような、後から考えさせて頂いたけれども、土色に濁ったのではなくて茶褐色のね、私好みのカ-キ-色ですよね、あの色があったという事は、結局、私に下さった御理解だと思うですけども、まあ私につながる皆さまでありますから、私好みの方達ばかりなのですね、いうなら、集まられる方も、ですからそれで例えば、私共が本心の玉を磨くとか、心を清めていくという事ではね、本当の清まり、今日の御理解からいうと、それでは本当の私共の助かり、神の助かりにはならない。
やはり道一重こちらには、それこそ水晶のような綺麗な水が流れておる。そこで目を洗わして貰う。そこで心を洗わして貰うという時に、はじめて私共のすっきりとした助かりがあると同時に、天地金乃神のそこから、助かって下さるわけなのです。
昨夜寝ませて頂いとったら、遅うから親子三人で参って来た方がありましてね、是非今夜、親先生に聞いて頂かにゃならんというわけなのです。それで私、起きらして頂いて、炬燵の間で暫くお話を聞かせて頂いたんですが、やはり答えは同じ、これは新しく商売をはじめたいというのである。それでもう大体はそのつもりで、家もあるし、もう何かとはじめられるようにと出来とる。それでいよいよ合楽の先生がよいといわれるならば、はじめようというて見えられたのですけど、とにかく一年待ちなさいというて、どういう事になるか知れませんけれども、待たれる事になるだろうとこう思うのであります。
それでだんだんに、息子さんの話を聞かせて貰いよりましたら、大体寿司屋さんの職人になっておるのですよ。それで新しい寿司屋を開店したいという。二十一才なのです。二十一才というても、昔なら兵隊検査も終わって、一人前というところですからね。それで私、神様にお願いさして頂いたのですけれども、やはり昨日の朝の御理解に基づかせて頂いて、少なくとも親子三人ながらその気でいくと、大きな一つの球根ですかね、タマネギのような、根は皆一つのようであるけれども、タマネギの下に小さい根がついているでしょう。小根が、それを切って捨ててある。だからね、これがその、一時はよかろうけれども、大地から吸い上げる力というかね、小根がついておらなかったら長続きはしない。まあ、小根といえば、どういう事であろう。まあ、いろいろ、あるだろう。先ず、第一にフアンが出来なければならない。お客さんがね まあ、いろんな角度からコネがつくとこういう。それでこれから、一年間待たせて頂いて、そのコネの付く事の為に信心の稽古をしなさい。その為に今日を境に私がお願いをするから、ああこれがコネであろうかと思われるようなおかげを一つ一つ、頂いて行けばよいとこういうわけであります。
そしてその息子さんが申します事には、私ははじめこの寿司屋の職人にならして頂く事を意欲してそれから五年になるそうですが、親に安心して貰いたい、親に喜んで貰いたい一念が、寿司屋になる気になったというのです。
それで私がね、もうあんたが、そういう気持ち、只自分が立身出世したいとか、自分の願いをかけて、それが成就する事の為にというならなんだけれども、もう根本がね、親に喜んで貰いたい、親に安心して貰いたいという一念から、寿司屋をやろうというのなら、尚更一年待っておかげを頂きない。
私もお取次が非常にしよい。あんたの信心させて頂く心の中にある一つの信心の筋金というものが通っとらにゃいかん。おかげを頂きたい、只、それが漠然とおかげ頂きたいじゃいかん、こういう願いのもとに、おかげを頂きたいというのでなければいけない。例えば、これは私の場合でも、とにかく親に孝行したいばっかり、親に喜んで貰いたいばっかりがもう止むに止まれぬものになっきて、その親にというお願いが親が親教会になり、親教会が教団の事になり、教団の事が、天地金乃神という事になって、その親神様に安心して貰う、喜んで貰うという氏子にお取り立て頂きたいというその念願が今日、私がおかげ頂いとる基になってる。
天地の親神様の願いが成就する事の為に、いうなら、天地金乃神を助けてくれと、金光大神を通して願っとる。その願いを私は心に聞いた。そこから私の信心があるのだと。誰でも、親に不幸をしょうとか、親をいじめてやろうとか、親をこなしてやろうとか、誰もおりわせん。親子であるかぎり。けれども、親に本当に喜んで貰いたい本当に孝行したいという、それが本当に親に喜んで貰いたくてたまらんという人は、極まれである。
私はその極まれな方に入っておった。親に孝行したいけれども、親に孝行したい時にはもう、親はいないといったような事が世間一般にいわれる事であって、親不幸はしなかったけれども、親孝行出来なかったという事になる。
いやそのつもりでおるけれども、親に心配をかけた、親を泣かせたという事になるけれども僕の場合は、親に安心して貰いたい、親に喜んで貰いたい願いが、お寿司屋さんになったのですからその願いが素晴らしい。それが神様にその心で向かわせて貰うならば、必ず一年後にはコネが沢山出来るだろうと、だから、あせらずに一年間じっくりとひとつ、信心の稽古をして行きなさい。
昨日はそんなわけでね、昨日の朝の御理解に基づいて、おかげを受けなければならないという人達がもうずっと続きました。ある方の場合なんかもう大変なすったもんだの問題で、二時間から向こうのいう事を、はい、というて聞かなければならないところに追い込まれてしまった。そこで向こうの話を聞いて、これはこんどまで向こうのいわれる事を聞いてやらにゃんだろう、まあ助けてやらにゃんだろうという事になったけど、とにかく一寸待って下さい私はこの頃合楽の親先生任せじゃから、親先生がよもやいかんとはいいなさるまいからまあとにかく、お電話でもかけてみるからというてから、と二人の人を前にして、電話かけた。ところがいつもそれはしてあげられたがよいでしょうと、いつもそうでしたが、いつの場合でも昨日ばっかりは、今日は止めときなさいという事じゃったです。もう親先生これを聞かせて頂きましてから、すぐ御礼にみえました。
その後に、それでお電話で聞いとるから、それが演出という事ではない程したまがって向こうの方も承知して貰うはずじゃったつが、親先生がいかんといわっしゃった。今日だけは止めときなさい。ところが今日でなければ、明日ではいかん、今日一日止めときなさい。もう明日ではなにもならん。後から考えてみれは本当にそれが、考えれば考える程ですね、まあ後で、考えればその人のいう事を聞かんで本当によかったと思いますというて、昨日御礼に出てみえました。昨日はずうっとそんなお届けばっかりでした ですからこうやって、朝の御理解を頂いた、だから朝の御理解のどこからでもよかけん、ははあ今日はこの御理解のここんところを一日頂きぬくというならばね、もう必ずおかげ頂くです。そういう事でも朝の御祈念に参ってこねばおられんのですね。 いうなら、そして今日、ここで立教神伝を頂きましたが立教神伝の、いわれというものは何回も聞いとりますけど、その中から天地金乃神を助けてくれと、とても人間氏子がです、とても金の神が助かんなさる事は、十人の子供がおるなら十人が助からなければ天地の親神様が助かる事にならないけれど、それを知らせて頂いた。
そういう金光大神の縁を頂いた者だけでも、本当に助からなければいけないという事です。それが神金光大神のお取次甲斐というもを、金光大神への御喜び頂く事と同時にです、そこから一人の氏子が真実助かるという事になる。そこで真実私共が、神様が助かって下さる程しの、安心して下さる程しの、おかげはどうい事かというと、本当に神様の願いがね、そういう神様の願いを、私が受けて、神様の本当の、助かって下さる事のために私自身が助からなければならないと。しかもそれをね、本気で助からなければならないと思わせて頂くという事なのであるしかもその助かりがです、止むに止まれぬ思いで助かりたい、又、天地親神様の御心に添い奉りたいという止むに止まれぬ願いというものがね、出来てこなけれはならぬ。
只、お互いの願いが、この事だけが成就すれはよいというのではなくて、勿論、その事が成就しなければならぬけど、その事が成就する事が、例えば、昨日のその一番最後に夜遅く、お取次させて頂いた寿司屋を開業したいという人の話でもそうです。 寿司屋が繁盛のおかげを頂きたい、寿司屋で成功したいという事は、まあ、願いですけれども、その願いが本当に親が喜ぶというか、親が安心してくれる事につながった繁盛でなからなければいけない。最後にそんな事をいっておりました。大体久留米の方なんですけれども、お母さんも久留米におられるのです。それに大体僕は寿司屋を久留米でするのが本当でしょうか、福岡でするのが本当でしょうか。又、他のところでしたがよいでしょうか。大体どこでするごとなるでしょうかという事です。
さあ、どこでするか、それはわからんよね。実際は。けれどもあんたが親孝行したい、親に安心して貰いたいという念願というものがあるのだから、答えはすぐ出てくるじゃないか。やはり久留米でなからにゃいかんだろうな。すると親も傍におって、安心出来るし、だからね、一つの願いというものがはっきりして筋が通りますと、答えはすぐ出てくるのですよ、すべての事が。だから親に安心して貰いたいばっかりに親に喜んでもらいたいばっかり、なら、親の足許におって、やはりという事に答えが出てくる。これは御神意を頂かんでもわかると話した事ですけれども、そんなもんです。信心の筋というものがちゃんとはっきり頂きましたら、只、僕が繁盛すればよい金持ちになりさえすればよい、立派な家を持ちさえすればよいだったら、どこだってよい事になります。
天地金乃神様の本当に喜んで頂きたい、天地の親神様が私一人の為ならば安心して下さる、喜んで下さるだろうと思われるような、助かりを私自身がしなければならん それにはどこに焦点を置いて、金光大神のお取次を頂いておかげを頂いていくかという事。
私共が立教神伝から頂いて、取次ぎ助けられなければならない。その取次助けられるのが、繁盛だけではいけん。只、病気が治ったというだけではいけん。ただ一事、二事だけが成就した事ではいけん。そういう助かりでは、只、お店が繁盛する。只、立身出世したというだけにやまず、しかもそれでは、神様は助かって下さらんのであり、それでは親は安心出来んのであるという事。親の安心のいく助かり。神様が助かって下さる程しの助かり、ですからそこんところをです、昨日のお寿司屋さんではないですけれども、願いがはじめから親に安心して貰いたい、親に喜んで貰いたい、一日でもそう早くあって貰いたいというのが、心急いで一年早うすれば一年早うよくなるという気持ちだったでしょうけれども、その為にはまだ々、準備不行届き、コネがない。だから一年待ちなさいと、そうしてからでも遅くはないという話。しかも願いというものがはっきりしているからその願いを、いよいよ強烈なものにしていく事以外にはない。それなら絶対繁盛のおかげになるだろうと、私も神様へお取次のしようがある。私も神様へお取次させて頂きよいという事になる。
どうぞ今日も何卒、何卒、成程そういわんでもです、どうか今日一日、商売が繁盛致しますように、どうぞ病気が治りますようにと、それは願えばよいけれども、その商売繁盛がです、神様の願いに添うておらねばいけない。健康になるという事がです神様の願いに添うて、天地の親神様の助かって下さる、神様の願いが成就する事に、つながっておらねばならないと。まあここのところは,まあ、いつも申します事でございますけれどもね。本当に神様の喜んで下さるような助かりと、本当に助かりたいという願いをね、本当にもっておるかどうかという事を、いっちょ確かめてみなければいけんです。そこがはっきりしてないから、そのおかげを受けた後が乱れてくるです。いわゆる、一貫性がない。お道の信心のいよいよのところはです、神も助かり氏子も立ち行く、氏子あっての神、神あっての氏子、繁盛いたし、末々、親にかかり子にかかり、相よかけよで立ち行くと、こういう助かり方が出来れる内容を持った願いが出来ておるかどうかという事です。
お互いの信心、自分だけ助かればよい、自分の一家が助かりさえすればよいと、それではね、そういう助かりがどれだけ、いわば世界中のものが、そういう程度の信心をしたところでです、天地金乃神様が助かって下さる事にはならんのです。
それよりも、それこそ一人でも二人でもよい、天地の親神様の願いの成就する事の為に私共が精進する。そこから、いわゆる神も助かり氏子も助かっていく。いわゆる神も氏子も共に助かっていくという、いわば助かり方をする人がね、どんな人が助かっていくよりも、そういう助かり方を一人でもする人があるという事が、神様の願いなのです。ですからそういう、願いをです、持たせて頂けれる一つのチャンスというか、そういう機会を頂いたという事が金光大神のお取次を頂いて、信心の稽古をさせて頂くようになったところからはじまるわけなのです。
今日の御理解から申しますとです、いうならば、濁った水で如何に清めたところで本当の清まりにはならない。やはり清らかな水で、磨いていかねば本当のすきっとした磨かれるという事にはならない。只、神様を信ずるという事だけならどんなに濁った中で、磨く事に努めたでけでも、おかげ頂きましょうけれども、いうならば、神様が安心して下さる、神様が信用して下さる様なおかげはどうしても、清まった清らかな水の中で磨かなければ、神様に信じられるという事にはなってこない。
そういう切な願いをです、金光大神にその胸の中を打ち明けられて、神頼みになったのが立教神伝。だからどれだけ沢山の金光教の信者があるというても、そりゃもう一生懸命お参りして病気が治りました。おかげで商売が繁盛しとりますというだけであったら、いわば、立教神伝の値打ちがない。いわゆる金光教の信心が、いわば誕生したというその意義すらあやふやになってしまう。天地の親神様が、教祖金光大神に頼まれた、願われた。それは人間氏子の本当の救済、本当の助かりですけれども、これはおかげを受ける方の側、助かっていく方の側であるところの私共の助かり方がです。いわゆる天地金乃神様が、心安らいで下さる、安心して下さるという、助かり方につながっておる助かりでなかったら、立教神伝を何百回読んだところで、頂いたところで値打ちはないという事です。
今日はここんところを、立教神伝、これは金光教の信心の一番大切なものと天地書附と同様にですいわれておるわけです。ですからそれを如何にここで丸暗記したところでです、天地金乃神の助かりにつながるところの助かりでなかったら、立教神伝を下された値打ちはないという事になるのですから、一人一人が一つね、助けて下さい助けて下さいという事がです、それじゃったら例えば、金光教がどうしても、この世に出来なければならなかった理由はです、神様が切に助かりたいという願いから、立てられたお道だと思います。ですから神様が助かる程ここでは氏子が助かるという事 氏子の救済です。氏子を助けてくれというとられますけど、その助けてやり方がです金光大神の助かり方というものがです、神も助かりという事につながっておらなければならないという事は、金光大神は力説されるわけです。
この教えの中にそれで、何十年信心させて頂いておってもです、只、金光様の信心を頂いておるだけで、おかげ頂いとりますというのでは、立教神伝の意義というのもは、ない事になりますから、この立教神伝をたいして、私共が取次ぎ助けられていく道を体得させて貰う。それには私共が本気で一つそこんところをね、本気で助かりたいという気にならなければいけないという事。その本気で助かるという事は、天地金乃神も共に助かって下さるという、助かり方だというような事を、まあ今日はくど々申しましたけれども、もう、どんなにくど々申しましても、私が皆さんの一人一人に顔を見ながら思うのに、この人は果して、そこのところに焦点をおいて信心しとるじゃろうかと思うのです。危ぶまれるわけなのです。ですから皆さんがそこのところをですよ、もういっぺん、確かなものにして、稽古をしていかにゃならんと思うですね どうぞ。